キツツキの穴

日々つついた穴を埋めたり、のぞいたり、もっと深く大きくしてゆく穴掘りメモ。

インスタというポジ

最近インスタグラムを始めた。

スマホに変えたことも理由にはある。
一人の時間ができたこともある。
家に居たことは大きい。
写真を撮ることを積極的にしようと思っていた。
何でもやってみなくちゃわからないという突発的飛び込み。

まずインストールの後の設定に悩んだりした。
写真を撮るという習慣がなかったので、その行為に羞恥した。
思った以上に、きれいに撮れるのでびっくりしたのと恥ずかしさと、違和感を感じた。
撮った写真をいろいろに見せ方を変えて、もっときれいになりすぎることに困った。
キャプションの文字はできるだけ短くしようと思った。
いまだにタグのつけ方がわからずにないまま。

インスタはネガポジのポジ、陰と陽の陽。
そしてここ、ブログはどちらかというとネガ、陰。
インスタにのせた数だけポジがありネガがある。
ポジを残しておけば、私にとってのネガは見えなくても残る。

ややこしい人だ、私という人。

もう子供たちは私に爪を切らせない。

私の指は太くて短くて指先に向かってすぼまっていって、丸い爪がついている。
自分では気に入っている。
子らは私と同じ爪の形にされることを恐れていて嫌ってもいるんだろう。
彼女らは細い指、四角い大きな爪が美しいと思っている。
ちょっと反り気味の指先の、私からみたらおすましした意地悪そうな指先。

一緒にお台所仕事をしようとしてもその爪が目に付いて仕方がない。
ピンクの爪から先の白い面積が。
「爪切ってきて。」
その言葉に台所に立ち入らなくなる。
米を洗っておいてほしい時も躊躇する。

爪という皮膚の一部。
タンパク質。
指先にしっかりとした力を籠めるための鎧。
所作を美しく見せる神経の先端、美意識としての爪先。

米を洗い、パンをこね、野菜を刻み、人の肌に触れる私の手。
私の爪は短くていい。丸くていい。
かわいい手だ。

きっと、彼女たちの手も働く手になっていくにつれ変化していくのだろう。
今はまだ何も持っていない手。

黛を濃うせよ

黛を濃うせよ草は芳しき    松根東洋城

購読している毎日新聞の季語刻々という俳句の欄にあった。

眉を濃く書きなさい。
若草のこの季節、濃い眉のあなたはまさに若草のような美しさ。という句だそう。

素敵な句だなあと思った。
太眉が流行りだそうだ。今もかはわからないが。
眉の下弦をしっかり太目に描くと若々しく見えるとか。
今はマスクをして出かけることが常なので、メイクというほどはしないが
眉はしっかり太くやわらかに、軽くマスカラをすれば眼力はとっても強くチャーミングなマスク美人になる。
「出かけなくても、眉は毎日描こう」が日課
不思議と眉をちゃんと描くと元気になる。
眉間のあたりには第3の目があると信じている。
眉はその目を支えているのだろう。

今日も黛濃く描いている。
こうしてまた、日々の心のつらつらとした言葉も残そうとしている。
大丈夫、大丈夫。

ポストまでは徒歩3分

スマートフォンに変えて、いくつかのアプリをインストールして、
仕事の仲間内でも必要なのでLineも始めた。

必要連絡も、共有もできて便利だが、繋がりと、心許した間柄ゆえの「友だち」なのだろう。

つながる手段は手に入れたが、やっぱりせっせと手紙を書いている。
手元に気のきいたポストカードがなくなってきた。
彼女にはどのカードで書こう・・・と選べなくなっている。
カードまで手作りでアレンジして。
全然アナログな私。
ポストまでは徒歩3分。
要でも急でもない。
遠くから手を振っているようなソーシャルディスタンス。

どこにいるのか

covid-19

毎日がその報道ばかり。

家にいるとはいえ、もう感染していて潜伏期かもしれないし、
まったくの無症状でいるだけかもしれないし、
ちょっと鼻息が熱かったり、ちょっと鼻やのどの奥なんかがカ~っとする・・・
なんて怖くなって体温を測ってみるとなんでもなかったり。

体がなまって仕方がないと、やたらスクワットや筋トレしたり。

涙が出て止まらなくて仕方がなかったり。

やたらと子供たちを捕まえては抱きしめたり。

岡江久美子さんの訃報以降か、特にそんな風に過剰に反応している。
今日、朝ドラの「エール」に志村けんさんの姿を見て、またザワンザワンと胸の奥からせりあがってきている。

新聞の大きな見開き半分のファッション誌の広告も夏の装いで
ショッピング欲をそよそよと誘いに来ているのだから。
そう、始まりに急いではいけないけれど、今立っている場所がわからなくなっている。
怖い。
ちょいと背中を押されれば、ブリキ人形のようにトコトコと歩き出してしまいそう。