キツツキの穴

日々つついた穴を埋めたり、のぞいたり、もっと深く大きくしてゆく穴掘りメモ。

世界中のウチナーンチュ

また、何かの拍子にフリーズしてしまってここへきて、ここに書いていくことも止まってしまっていた。
誕生日も過ぎた、消費税が10パーセントになった、大変な台風被害が出た、即位礼正殿の儀も行われた、首里城が焼けた、もう11月になった。

誰にも必ず死という無くなるときが来るとわかっている。
4月に焼けたノートルダム寺院も、首里城も燃えるとも、無くなるとも思っていなかった。
これから、何百年と守り残され、皆が集う場所としてあり続けるものだと思っていた。
必ず、また同じ場所にあるノートルダム寺院を、首里城をみたい。

首里城に何度行っただろう。
誰と行っただろう。
最後に行ったのは、子らを連れてあの家を出た2012年の3月。
無駄に長く滞在した那覇の一番晴れた日に長女6歳、次女2歳と。
観光らしく、守礼門でなんちゃって琉球の衣装に着替えて写真を撮ってもらった。
のぼりの坂道をベビーカーを押しながら、子らが大きくなった時、覚えていなくても
絶対ここだけは来ておきたいと思って行った場所だった。
沖縄にとっての首里城

玉城デニー知事が「国民、県民、世界中のウチナーンチュ」と呼びかけた時、
何年か住んだだけにしかならなかったが、あの島の土になるのだと信じて移り住んだことをまだ心の中で持ったままでいることを思い出させた。
沖縄の血が私の中に全くないのだけれど、そこを故郷にしようと一所懸命だった私を思い出させた。
あの集落の中では、ナイチャー(内地の人)だったけれど、
今何年も経って、遠く離れて、「世界中のウチナーンチュ」と呼びかけられたら
世界中、地球中まとめてぜ~んぶウチナーンチュでいいやんって、狭い中で苦しかったことを馬鹿らしく思った。
開拓移民として海を渡ったウチナーンチュの方々の2世3世に呼びかけたのだとわかっているけれど、
「世界中のウチナーンチュ」って言葉の響きがすべての人、世界中の人を指して、
私もそこに含めてもらえてることにした。

きっとまた、首里城へ行く。