キツツキの穴

日々つついた穴を埋めたり、のぞいたり、もっと深く大きくしてゆく穴掘りメモ。

スキャンダル

こうして、私の個人的な心の穴に文章を書き、残し、排泄するかのように公開しているブログで、誰かに読まれているということは、今まで書いてきたことも、これから書いて話していくことも、一種の暴露本のようなモノなのだろうなあと思う。
今まで書かれ、出版され、ワイドショーをにぎわせてきたその言葉や、人は、書いた自分自身のために、自身に向けて書かれたものであるし、その時々に言えずにいた、わかってもらえなかった特定の誰かに向けて書かれた超個人的なものだ。
本として残るのも、こうして電波に残すのも罪なことだろうなと思う。

子らを連れて家を出たのも、私たちを知る人たちにとっても、私の人生においてもかなりのスキャンダルだった。でも、それも、その後のことも想定して起こした行動だったので、あるところでは死ぬ瀬戸際の決断でもあったけれど、冷めた冷静な心も残っていた。
ただ想定外だったのは、生きるためというよりは、その家に、その人と一緒にはいられないと逃げた自分の体と心に、想像以上に生きる力が残っていなかったことだった。

こうして書いていくことも、私の側から見たことだからそれだけが真実とはいいがたい。
記憶がピンポイントで誇張されることもあるだろう、
薄れてぼやけて行っていることもあるだろう、
恐怖やショック、絶望、悲しみで記憶が全くない時期もある。
だから、ただの思い出として残すこともあれば、呪いや恨みとしてとどめておきたい出来事もある。
そんな中でも、うれしかったことや、平穏そのものだった時間も思い出したい。

タルトタタン

連休3日間を台無しにした台風18号は、
日曜日、思ったようには雨が降らなかった。
予報では一日雨で、当初風も強い予報だったので
予定していた用事はすべて中止の連絡だった。
家で、久しぶりにゆっくり過ごした。
秋物や冬の衣類が子らの体に合うか衣装ケースを広げ、買い足さねばならないものがあるか、ファッションショーのようにとっかえひっかえ着替えさせ、
要不要の分類をした。
夏という季節は子らの背や手足をグンと伸ばした。
が、肩幅身幅はほとんど変わっていない。
ワンピースはチュニックに、チュニックはブラウスのように着るからと、
ほとんど捨てさせてはくれない。袖は、短いよと、思いながら。
買い足すのはワンピースと、パンツくらいなものか。

衣替えの時、ここからまた精査して要不要を分類する。
タンスにゆったりと並ぶほどしか洋服を持たせない。
子らが銘々片づける、着る服を決める時に不都合だから。
思ったほど減らなかったので、この作業が大変だなあ。

連休3日目、台風一過、私は仕事。
バアバと私の妹に連れられ、食事とショッピングに出かけて行った。
やっぱり、また、洋服が増えた。今年のヘビーローテーション決まりだな・・・

そして、ケーキのお土産。
ラ ヴァチュールのタルトタタン
代が変わって百貨店の催事に出店されていたという。
味や製法など代わっていないというが、やはり違う。
交際中、元夫と何度か行った。
まだ先代夫婦がお元気だったころ。
壁面には写真家の写真がかかった貸壁。
当時龍谷大に籍を置いていらっしゃった五木寛之さんの色紙。
私たちの間にあった甘い空気。
テーブルにはタルトタタンと、クルミのタルト。

もう、食べない。
ラ ヴァチュールのタルトタタン
あの時ほど、美味しくない。

台風一過

 

台風18号は宇治の町を風の音で怖がらせはしたが、
翌朝は「空も街もきれいに洗い流しておいたよ」とでもいうように
さわやかにピカピカした罪のなさをしていた。
所かわれば、川は氾濫し、町は冠水し、家にも浸水し
土砂に流され、いろんなものを失っているのに。

結婚生活も、別居を決めて家を出てからも、離婚までの出来事も、今、生きていることも、台風になる熱帯低気圧が生まれてどんどん雲が集まって、大きな目の台風になって、
私の上を暴風、強風、豪雨が行ったり来たり停滞しながら暴れて壊して通過した。
その傷跡を熱帯低気圧に戻りながらも風と雨雲を残したまま居座って痛めつけている感じ。
まだまだ通り過ぎていない。
が、太陽がさすことも、その地にまた新しい芽が出ることも、
住み心地の良い場所に整えていく私の姿も、今は想像できる。

台風が連れてくるもの

台風18号は、宇治の町には甚大な被害は置いていかなかった。
だけど、いつか住んでいた南の地で大暴れした台風が北上してくるのは毎年のことながら私にとってはしんどい。
何かも、一緒に連れてくるようで。

天気図で台風の位置や、気圧、風速、風向き、降水量、進路などを見る。
台風らしい風の唸る音を聞く、TVで各地の台風被害の映像を見る。
私が住んでいたあの雨漏りや水しみしたあの家、飛ばされた屋根、戸、割れたガラス、家の中の滝、ろうそくの光、怖かったこと、仕事が休みで一息付けたこと。
雨戸の設置や車の避難、台風対策のすべて、停電や断水、台風の事後処理など隣近所の防雨風対策の手伝いやら、屋根の修理をしてもらうまで屋根なしのお風呂だったこと。
いろんなことを思い出してしまう。
あの白飯と切り干し大根の炊いたんあたりから、また、私は台所での作業や献立の決定などいろんなことに支障が出てきて、この台風で心や記憶があの家の台所の私に引き戻されている。

台風も来た、子らの面会交流も話し合わなくてはいけない、産前産後ケア専門員の講座も始まっている、11月からは新しいことも始まろうとしている。
ここらで、つまづきのこと、その障害となったもの、よけたり、飛び越えたり、取り除いたり、つまずいてこけたまま立ち上がれなかったことが何だったのか考えて行こうか。


白飯と切り干し大根

「仕事して家に帰ったら、白飯と切り干し大根のたいたんだけでした。」

そう、一歳そこそこの子がいる男性が言った。
その言葉の中の不満に、ざわッとした。

その妻のことを想像した。
冷蔵庫の中はほかに食材はなかったのだろうか。
子がぐずって、作れなかったのだろうか。
食材も買いに行けないくらい一歩も外へ出れないくらい心も体もしんどいのだろうか。
食材もある、または買いには行ったが献立が決められずに作れなかったのだろうか。
食欲がわかず、作ることができなかったのだろうか。
何か、他にも、考えられる理由はないか・・・

その男性には「そうだね、具だくさんの味噌汁や納豆くらいあったらよかったね。」と言った。

でも、想像したその妻の状況は、いつかの私だ。
そして、どの状況も子の世話以外に、愛情や手間や気持ちも、体力も時間も注げるだけのものが全く残っていないという燃料切れだった。
その燃料となるものはどこから補充されるか。
自分自身で回復できればいいが、休息や、自分の時間、子育ての中の余裕、楽しみ、そしてコミュニティからのサポートや、何より夫からの気づかいや愛情によって、また頑張れる燃料となる。
母は強し、というけれど、
母になったばかりの女は、ニンゲンとしては一番弱い時期かもしれない。
産めるが、育てることは一人でできない。
助けがいる。
私は続けて、言った。

「私がその頃一番してほしかったのは、茶碗を洗うことでも、洗濯を干すことでもなく、
ただ、抱きしめてほしかっただけです。
笑わせてほしかっただけです。
ぐずって寝ない子と、3人で一緒に添い寝してほしかっただけです。
きっと、そうしてくれたなら、次の日はもう一品二品、あなたに並べることができます。」

そう、一生懸命に話した。恥ずかしいことに涙も浮かんでたかもしれない、涙声にもなっていたかもしれない。
私がしてほしかったことは、彼女がしてほしいこととは違うかもしれないからどうかわからないが、少しずつ誰かにいつかの私の気持ちを話す。

今、京都府の事業で産前産後ケア専門員の講座が開かれていてその講座を手伝っている。
私は産前産後訪問支援員の資格をこの事業で勉強した。
この産後の、母になったばかりの頃の子育てのつまずきや夫婦としてのつまずきが、
私の家庭を壊したからだと思ったから。
この、失敗ばかりの私に子育て家庭のサポートが直接できるのかどうかはわからない。
だけど、私のつまずきを傷として残したくない。
少しずつでも、その傷を優しくなでて磨いていきたい。

この講座を手伝いながら、また、いつかの私を思い出し、
何がしんどかったのか、どういうサポートや助けが必要だったのか思い出す。
そして考える。今の私だったら、どうするか、何ができるか。
そして、同じようにしんどい思いをしている母を目の前にした時の自分が、
どれほどの揺れ幅で振り切れるほど揺れるかもしれないが、
そうやって、揺れるほどにそれを収めていきながら寄り添っていけたらいいなあと
思っている。