キツツキの穴

日々つついた穴を埋めたり、のぞいたり、もっと深く大きくしてゆく穴掘りメモ。

新年度の助走

新学期が始まって、少し仕事をセーブして、
子供たちの「ただいま~!」に、
「おかえり~!」を言える時間をつくる。

次女2年生が、仲良くなった一年生の時の友達と休み時間の廊下でじゃれ合いながら
「何組なった?」「3年はまたおんなじクラスなろな~」とおしゃべりすることや、
だいすきなS君とは、クラスは離れたものの、家の引き出しに大切にしまってある
もらった手紙をときどき大事そうに見ているのを見ると、
まあ、少々勉強はできなくても、なんだか大丈夫だなあと思う。

長女6年生は、学級委員になっていて、一年生歓迎会で司会をやった話や
最近、急に日本史に興味を持ちだして私の少ししか持ちあわせていない知識を総動員して話を盛り上げていっている春、新年度の始まり。

GW、少し休んで、一年度を始めよう。

桜前線通過

毎日新聞を購読している。
4月2日の俳句季語刻々で紹介されていた句。

けふまでの日は けふ捨てて 初桜
            千代女

そんな気持ちになれる桜を見たい。
桜の咲き様を見て、そのような気持ちになりたいと思いながら桜の開花を待った。

今年の桜は、少し遅く、ぐずぐずとゆるゆると咲き始め、
見ごろかと思われた日は雨や嵐で、
いざと、花見に出かけ様とした日には、もう桜吹雪だった。
どんな桜の咲きようを見ればそう、思えると思っていたのか。
想い描くようには、なかなか、そうは思い切らせてくれないものだ。

今日、紹介された句。

体から こころこぼれて 花は葉に
            池田 澄子

この句の方が、今の私にぴたりと来た。
今年の桜も、きっと私の目には映らないまま、葉っぱになってしまったのだろう。

f:id:kitutuki0925:20170429233147j:plain

今年のお気に入りの桜。
八重のかわいいピンクのふわふわ。

洗濯にかかる時間

まだまだパート程度だけれど、決まった時間に仕事に行き始めて、朝が忙しい。
これだけは出勤前にして出かけたいという、家事は誰だってあるだろう。
うちは、私と小学生の二人の子らを連れて私の実家に住んでいて、
父母と妹の6人。
朝一番、家族が一日飲むお茶をやかんいっぱいに沸かすのが日課。
一回目の洗濯を回し、
朝食の準備や、子らの準備を手伝いながら自分の身支度をし、
子らを送り出して、朝食の片づけ、家中を掃除機をかけて出掛ける。
時間に余裕があれば一回目の洗濯を干し、2回目の洗濯を回す。
そして、2回目、3回目の残りの洗濯を母に任せて出かける。ここまで。

春休みで子らといる時間が長くて疲れ始めているのだろうか、
子らも成長して洋服の一着一着が大きくなって洗濯を回す回数が増えたせいだろうか、
季節の変わり目でたくさん洗濯物が増えているのだろうか、
春になって花壇や家庭菜園の畑の手入れに時間がかかって洗濯にかける時間が惜しいのだろうか、
70歳という年齢が家事のこまごまに悲鳴を上げ始めているのだろうか。

「洗濯機もう一台買おうかと思ってるねん。」

と、突然か、もう長いこと考えていたのか、母が言い出した。
最低一日3回まわす洗濯にかかる時間がしんどいと。

もう一台洗濯機を買い足す。
それも一案だ。
私がもう一時間早く起きて、または予約設定して2回分までの洗濯を干してから出かける案。
うん、明朝、やってみよう。

フライングするとこやった・・・

なんてことだろう。
4月3日は、お世話になった先生方の離任式で子らは登校した。
3月、学期末もらってきた予定表を見て、
私は何を勘違いしたのか4日から始業式と、
家中のカレンダーに書きつけて、子らは「明日から新学期や~」と、床に就いた。
なのに、日にちが変わって、さあ子らの明日の始業式登校の準備のチェックをしましょうという頃に、気が付いてしまった。

「あれ!!始業式6日やん!!」

4日5日、あと二日、春休みあるやん・・・。

どうしよ~~、ノープランや~~。

やっと、桜は咲き始めた。
どこか、行かねば~~~・・・

 

フォルテという強さ

毎日新聞を購読している。
3月、4月は紙面のリニューアル、記者の交代や、寂しいことも。

コラム発信箱の夕刊編集部小国 綾子さんの記事は楽しみにしていた。
よく、じんわり泣いた。
詩の話題が多かったように思う。
三月の最後の記事も歌人千葉聡さんの短歌の話。
高校の国語の先生で生徒とのかかわりや、教師としての悩みを短歌にされていたと。
その一句が紹介された。

フォルテとは遠く離れてゆく友に
        「またね」と叫ぶくらいの強さ


フォルテとはイタリア語で「力強く」「深く」という意味で使われる。
声だけでなく思いの強さのにじむ別れの短歌。
見送る側と、旅立つ側と、その声の強さや思いは違うだろう。

私は、つい最近あの場所から離れた。
が、まだ、そこにいる友たちにさよならも、ありがとうも言えてない。
離れた今の私に叫ぶだけの声が出ない。
そこに根を張り切れなかった私に、劣等感を感じているのかもしれないし、
自立しきれていない私が、まだまだ心細く思っているから。
フォルテほどの力がないから。
「またね」は、もう、無し。にしようと、決心しているからかもしれない。
でも、ご縁を信じて、「またね」と、いうべきか。
会えなくても、そこを時々思い出すたびの「またね」を自分だけのために用意しておこうか。

言葉は、怖い。
でも、こうして助けてくれる言葉に出会う。