キツツキの穴

日々つついた穴を埋めたり、のぞいたり、もっと深く大きくしてゆく穴掘りメモ。

潔く方向転換

短大では、美術科で日本画を描いていた。
2年。
1年フリーターをして、
5年間卒業した短大で助手として勤務した。
ずっと、絵を描いて生きていくと思っていた。

出会って、
私の孤独と私自身に正面から向き合う時間が減って、
深く沈んでいくことが減った分、
描くことができなくなった。
彼のこれからの時間に、私を重ねることで大きく方向転換したのだった。
とても、自然で当たり前のように。
とても、描かなくていいという軽やかさと安どもあった。

2人の生活と自然の中で満足だったが、
子供を産み育てる時に、
また、方向転換が必要だったのだ。
彼の仕事を手伝うことをやめるべきだった。
絵を描く事と、彼との生活との両立ができないと判断した転換の潔さを
この時も決断できればよかった。
仕事と、子育て、家事、地域とつながること、どれも満足にはできないことを。

今、また大きな転換期。
両立は目指さない。
一つのことしかできないのだから。
どの一つを選んでも、ごめんなさいをするしかない。

写真

何年も開けなかったアルバムを、
時間をさかのぼるように、
また、時間の流れに沿ってめくってみた。

どの写真も、笑っていて、
どの写真も嬉しそうにその姿を見つめて、シャッターが押されている。

どこにも、苦しかった私はいない。
しんどい姿を残そうとはしないし、見ないようにされていただろう、
またカメラに向かってしんどい姿を残そうとはしない。
私のその苦しかった時があったという証拠写真がない。
だから、夢だったのだろうか。
と、わからなくなる。

そうして、幸せだったという証拠写真が、夢だったのだと、
その夢を忘れろと強迫してくる。

浴室の鏡に、私がみえる。

その胸の乳輪の中央にあるはずの乳頭が、少しひしゃげたようになっている。
子が、二人合わせて40か月もこの乳を吸っていた。
納得の形状かもしれない。
加齢のための弛みや下垂ともいえるが。

いつか、誰かが言っていたのか、何かで読んだのか、
タバコを吸う人は、ニコチンの中毒のその前に乳幼児期に十分におっぱいをふくませてもらえなかった欲求不満の解消、または十分に甘えられなかった自分を慰めるために
煙草を母の乳の代わりにくちびるにあて、吸っている。
と聞いて、その煙草をくわえて吸っている姿が
おっぱいを吸っている様に見えてしょうがない。

ニコチンパッチや禁煙ガムを与えて禁煙を迫った前夫にも
「タバコ吸いたくなったら、乳吸いにおいで」
とでも冗談でも言っていれば、禁煙しただろうか、セックスレスではなかっただろうか、今はどれくらい吸っているのだろうか、いつまでタバコを吸うのだろうか。
と、ふと思ったりした。

セックスアピールのため、赤ちゃんが乳首を見つけやすいようにとメラニン過剰に色の濃かった乳輪は、授乳を終えてからグンと色が優しいきれいな色になった。
これも、体の生殖の活動の終わりの合図、変化なんだろうなあ。



私が幸せでありますように

毎日新聞を購読している。
毎日曜日にある小川糸さんの読物も楽しみにしている。

糸さんは毎晩眠る前、朝起きた時にお布団の中で毎回同じ言葉を唱える。と。

私が幸せでありますように。
私の悩み苦しみが、なくなりますように。
私の願い事が叶いますように。
私に悟りの光が現れますように。

私の親しい人たちが幸せでありますように。
私の親しい人たちの悩み苦しみが、なくなりますように。
私の親しい人たちの願い事が叶いますように。
私に親しい人たちに悟りの光が現れますように。


生きとしいけるものが幸せでありますように。
生きとしいけるものの悩み苦しみが、なくなりますように。
生きとしいけるもの願い事が叶いますように。
生きとしいけるものに悟りの光が現れますように。


私の嫌いな人たちが幸せでありますように。
私の嫌いな人たちの悩み苦しみが、なくなりますように。
私の嫌いな人たちの願い事が叶いますように。
私の嫌いな人たちに悟りの光が現れますように。       
       
私を嫌っている人たちが幸せでありますように。
私を嫌っている人たちの悩み苦しみが、なくなりますように。
私を嫌っている人たちの願い事が叶いますように。
私を嫌っている人たちに悟りの光が現れますように。       
       
生きとしいけるものが幸せでありますように。

アルボムッレ・スマナサーラというスリランカ出身のお坊さんの提唱する瞑想法だそうだ。
自分自身の幸せの延長線上に、誰かの幸せがあるということはいいことだとも書いていらっしゃる。自分の幸せを願って、自分自身の幸せを知ること。

これは、私の今、たった今の最重要課題だ。
しかも、緊急な。

試しに二晩ほど早速唱えてみようとしたが、私の幸せを・・・
というところですでにつまずいた。
さらに、その後の私の嫌いな・・・私を嫌っている・・・では気持ちが昂りすぎて、
憎しみや、妬みや恐ろしい気持ちが噴出してきて、全くダメだった。
何よりいけないのは、その私の嫌いな人の中にも、私を嫌っている人の中にも「私」が入っていることだった。

しばらく、私が・・・と、私の親しい人たち・・・生きとしいけるもの・・・というところまでを何も思い煩うことなく唱えられるように。
心静かに眠れるように。

とにかく、はやりものの健康法のように、いいと言われるようなものは何でもやってみる。

世界のどこかにいるあの人

火曜日はTVの「世界の日本人妻は見た」を楽しみにしている。
世界のびっくりや、世界のいろんな場所で頑張って家族を守り楽しんでいる姿をまぶしく見ている。

なぜだか、私は国際結婚をして外国人の夫とどこかの国で暮らすとずっと思い込んで
近所のお姉ちゃんと一緒に割と早くから英会話を習っていた。
今や、英単語をたくさん忘れてしまって話すのが怖くなってしまったが、
また、話したいなあと思う。
そして、未だにいつか、国際結婚するのではないかと思ったりもしている。
英語も、イタリア語もフレスコ画を習うため、イタリアを旅するためと習ったのも
その言葉を聞くとその頃の私を思い出す。

もうすぐアメリカの大統領就任式ということで、トランプさんの報道や新聞記事でよく見る。
彼の奥様はスロベニア出身と聞いて思い出した。
私は美大の短大生時代、家の近くの京都大学黄檗キャンパス前にあった蕎麦屋さんでアルバイトをしていた。
たくさんの研究者や、留学生がいてその蕎麦屋にも食べに来ていた。
その中の一人のスロベニアから来ていた人と英会話の練習に付き合ってもらっていた。
彼はスロベニア公用語スロベニア語だと言っていた。
彼の英語に訛りや癖があるとかまではわからないが、私のつたない英単語と、彼の優しい言葉で70パーセントくらいの理解で毎週末が楽しみだった。
小さな花とSloveniaと彫られたハートの形の赤土で焼かれたチャームをもらった。
お土産物のようなモノだったかもしれないが、彼の滞在期限が来て、帰国した後も長いことそれを大事にした。
お互いのことが、ほんの少ししかわかっていなかった言葉の少なさだった。
どこそこへ行く、あれそれが好きだ、どんな気持ちだ、どうしたい、したくない・・・
最低限の言葉で不自由はしなかった。
もっと時間があって、もっと一緒にいたなら言葉以上にお互い求めただろうか。
もっと、言葉を使った知るための言葉を増やして磨いただろうか。

彼の帰国も冬だったなあと、いつも冷たかった彼の唇を思い出す。