キツツキの穴

日々つついた穴を埋めたり、のぞいたり、もっと深く大きくしてゆく穴掘りメモ。

サヨナラの返事

ひと月ほど前、いつかの友たちにもう、またねという会う約束のない別れの手紙を送った。
そして、その彼女たちの一人から返事が来た。
水面に今朝咲いて落ちたばかりの軽やかにただ浮かんでいるだけのような、どこかに旅立っていくような、自分がどんなに綺麗か知らずに、ふわふわ浮いて、もう自分で自分がうつっている水面を見れない花の絵葉書。
その花の香りを、まだ覚えているし、忘れることはない。

とても淋しい手紙で、一時代終わった感じがした。

と、書かれていた。
私は、彼女に、私の手紙の意味と、サヨナラがとても伝わったという満足感というのか
喜びを感じた。
一時代というのは大げさにも思えたが、それでいいのだと思った。
そうして、そこでの生活がしやすくなるだろうと思ったから出した手紙だから。

そして、また別の友からの手紙には


そこにいたことで、確実に何かを残している。
離婚を決意し、自立を決意し、子供を一人で育てると決意し強くたくましい。

と、書かれていた。
そう書かれていて、誰かの記憶や思い出の中の私をなかったことにしてほしいと私の手紙に込めたが、余計に印象付けたのではないかという思いと、
そこに見えるものも、見えないものも、残したものがあるからこそ思い切るのに時間がかかたのだということを思い知った。
離婚を決意したのは決意しなくてはならざるを得ないことがあったからこそだったのだという矛盾をまた、堂々巡りを始めてしまう。
また、まだ自立も、子育ても一人ではなく助けられていることで
なおさらうまくいっていないのではないのかという不安も気づいてしまっている。

落ち着いた今、この夏を乗り越えたら、それこそ3人で次の波に乗らなくてはならない。
一方的なサヨナラの手紙のつもりが返事をもらって、とてもうれしかった。


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雲  揚羽  我  可燃性

毎日新聞を購読している。

季語刻々の俳句の記事に7月25日に紹介された句。

雲が湧く 揚羽もわれも 可燃性       谷 さやん


いつの日か、ヘゴの木に張り付けられた揚羽の羽。
蒸し蒸ししたその亜熱帯の地で、原始の木ヘゴ(私)に張り付けられたアゲハ(娘)。
その後ろには高く湧いている雲。
それらが皆、可燃性だ。と

ジリジリと燃え続けているところが想像されて、意味ありげに燃えて焼かれ続けている夏だ。

おしろいばなのにおい

いつの間にやらもう立秋。
夏休みは、子らの生活リズムを崩壊させないように朝の時間、自習の時間、銘々の自由時間、昼食までを一緒に取ってからの出勤にしている。
仕事を終えて家路につくのは7時過ぎ。
家から徒歩10分ほどの距離。
夏休みが始まったころはまだ日も落ち切らずに赤い夕陽の空を眺めながら
「今日も一日終わったなあ」と、
5月の奈良旅以来毎日必ず見るようになった夕焼けの
ほんの10分の時間を愛おしく感じながらあるいていたが、
今やその時間はもう夜の時間が迫った藍の色に薄黄色のかすかな残照とその空白に小さな蝙蝠の飛ぶ姿を目で追っている。
そして、いつもの場所でおしろいばなのにおいをたのしむ。
もう少し、夏が完全に終わるまで、このいつもの場所に咲くおしろいばなのにおい。


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半年という時間

半年。
別居して5年、昨年末に離婚して半年が過ぎて、
そこに住んでいた頃の子育ての戦友たちに、「またね」のないお別れの手紙を暑中見舞いに乗せて送った。
やっと、言えた。
感謝を込めて、お互いのエールも込めて。

一週間に一回のヨガに通い始めて3年ほどたつ。
それぞれが自分のためだけに毎週楽しみにしている時間。
子らや家族を送り出し、家事をこなした午前の2時間。
ポーズを始める前の皆がそろうまでの世間話や、身近におこった話。
たいてい自分の話や、せいぜい子らの話。
母、または一人の女でだけあればいい時間。
皆と知り合って、順風満帆よき母として、妻としての家庭を持つ女として見られていた。

そう振舞っていたかもしれないし、私自身がどこからどう見てもそうみられてしまうのか、フリも上手なのか。

半年たった。
彼女たちに告白した。
彼女たちの肌に波立った鳥肌の小さなザラザラとした空気が部屋中に満ちた。
告白はできたが、彼女たちの顔は見れなかった。
彼女たちのショックを受け止められないこと、私の目からはこぼれそうなものがある。
半年とは、まだまだそういう頃。

 

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習字  書道

次女2年生は、春から習字を習い始めた。
筆圧もしっかりしてきたし、体力もついてきた、学校の近くのその教室になら一人で行き帰りできるようになった。
何より、「やってみたい」がいっぱいになった。

その次女が持ち帰ってくるその日の書き損じや、自画自賛の作品たちを並べて皆で品評し、ひととき楽しむ。
みな、習字、書道に熱中したバアバや教師だか師範だかを持っている大人たち。
その線と墨のおおらかさや素直さがうらやましい。

そして、長女6年生が「私も・・!」と、書道教室に行き始めた。
筆の、トメ、ハネ、はらいは習い、習得してこそ。
そして、墨が紙にしたたり、しみて、染めていく速さと体の動きを合わせること。
その快感と緊張感を知ってほしいと、
何件かの教室を見学し、電車に乗って2駅、通いはじめた。

いろんな先生がいる。
いろんな子たちが通ってくる。
どこも墨のにおいで、独特な空間。

子らの習字を習わせるとき、
私が出会った私の先生がいつも心にいらっしゃる。
とても、厳しい女の先生だった。
怖くもあったけれど、絶対の安心感と、信頼と、常に自分自身を確認しながら前に居なければならない緊張感があって、ここにいて、上達していく自分が想像できた私がいてここちのよかった記憶が書道というものだ。

子らは、どんな書道体験をしていくのだろう。

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