キツツキの穴

日々つついた穴を埋めたり、のぞいたり、もっと深く大きくしてゆく穴掘りメモ。

器用なつま先

ただ、行儀の悪いだけかもしれないが、
私のつま先は働き者だ。
特に掃除機をかけているとき。
掃除機を近くに寄せるのも、
扉を開け閉めするのも、
カーテンを引くのも、
椅子を寄せたり遠ざけたりするのも、
器用に無意識のうちにつま先があっという間に掃除機のヘッドが流れるように吸い続けるのを助けるために先回りしてどんどん仕事をしていく。

ただ、障子やふすまなどの建具類は、
力の加減やそのスピードの調節も、
つま先で引っ掛けたりつまんだりするには難度が高い。
そもそも日本家屋に使われている建具を開け閉めする所作はやはり両の手が必要なのだ。
そこはいくら何でも手を使うよ。

でも、つま先よ、
無意識の仕事人つま先よ、
働きすぎだ。
今日は思いがけず、お休みだったのだから、
丁寧に心穏やかに無心に、邪気をも吸い尽くすように掃除機もかけたかった。
その気持ちと、時間の余裕が気づかせた、無意識の仕事人、器用なつま先。

今年最初のセミ

関西に降り続けた雨が止んだ日曜日。
朝から眩しい澄みきった光が見えた。
雲さえかかっていなければ、どこにいても降り注ぐ太陽だけれども、
どの場所もいつもの様子ではない。
そう思うと、気持ちは晴れない。

この日、今年初めてのセミの声を聞いた。
長女は庭の金木犀の枝からセミの羽化したての抜け殻をとってきた。
かのセミの数日の命、夏。
梅雨が明けた。
いつもは祇園祭の頃なのに。
早い夏の始まり。

余震・予震

余震に敏感になり、地震当日の夜は眠りも浅く、
少しの揺れにも目が覚めた。
と、同じように目をあけている次女。
意外に繊細だったのね。
怖くていつもより明るめにしている寝所の灯りの中、目が合う。

本震を待つような一夜を過ごして、
次の日の夜はもう、睡眠不足と疲れで深い眠りの中。
つくづく、睡眠は翌日のパフォーマンスを上げるためのものだなと、
思い知らされて睡眠時間を確保するべく一日のすべきことをサクサクと終わらせていく。

友人小学生の予言のような本震宣言を真に受けて怖がる次女。
ニュースやワイドショーの言葉を聞きかじったであろうその情報を面白がりつつ、
枕もとには貴重品、眠るのはいつものナイティではなく着の身着のまま外に飛び出しても恥ずかしくないものを着て。
おさまっていく余震に安堵している。

揺れた朝

関西圏の朝
私たちの朝が揺れた。

次女は登校していた。
長女はゆっくり起きてきて身支度をしていたところで
小さな座卓の下に身を隠していた。
私はといえば、食器棚とテーブルに手をつき、体を支えているだけしかできなかった。
増改築を繰り返したこの家のこの場所はブロック作りで地震に弱い、
壁に取り付けてあるTVが揺れで角度が変わったとか、
次女はもう学校に着いただろうかとか、
貴重品の場所とか、携帯の充電が不十分だったとか、
頭の中では一瞬にいろんなことを考えてるのに体はただ立って、
揺れを両足の指で止めようかというように踏ん張って。

この日の半日以上、胃や胸がムカムカしていた。
仕事は半日自宅待機となった。
しばらく一週間ほど余震の様子をうかがいながら
少しずつ身支度を整えるように何が大事で必要かを生活の中から選んでいく。
いざが、いつか起こることを忘れていた。

主な仕事は徒歩圏内、または宇治市の中。
子らの近くにいる安心。
一つはそのために子らの近くで働いているのだと、改めて思う。
市内でも宇治川を渡って仕事に向かうときは、そのいざがおこったとき子の元に帰れないと、いつも不安になる。
川、海、水とは私の中ではそういうもの。
水は隔てるもの。
そこへ渡ること、行くこと、帰る事は決意があり、決心があった。
橋を渡る、船で渡る、飛行機で渡る。
走っては逃げれない。
距離というより、水が隔てている。

蛍を見る事

毎年、蛍を見に行っている。
母の実家近くの玉川は工事の影響か見えなくなっている。
去年と今年は宇治の植物園に行った。
夕方、いつもなら閉館の時間の蛍ナイトに行く。
西に傾いたやわらかい光の中を影と闇の境がわからなくなるその時間まで散策しながら一緒に移ろっていく。

この日はもう、バラは開ききっていて、ダリアがこんなにきれいでつややかで、茎も頑丈なしっかりとした植物だったと初めて気が付いた。
温室はただ一人で懐かしい南の植物たちに会いたい。
見知って、口にして、日常の中に生けて飾っていた花たちや、いつかの見慣れた強い色をした植物たちとの再会は、そこでの暮らしと出会った人たちを思い出して懐かしむには、立ち止まり、見つめて、とても時間がかかる。

アジサイの、昼は見ごろに咲いていたかたまりが、白くいくつも浮かんで見える。
そろそろだ。
小さな小川の草むらの中や、木々の中を飛び回る蛍をたくさんの人たちとぎゅうぎゅになりながらその光を見る。
ギュウギュウのざわざわの中で見る。
それが私にはちょうどいい。

誰もいない森のうっそうとしたシダの下草のなかをわけ入って
乱舞する蛍を見ていたその場所に
全く違う状況で見ているのにいつもそこへトリップする。
それをわかっていて毎年蛍を見に行く。

もう来年あたりこの恒例行事もやめにしよう。