キツツキの穴

日々つついた穴を埋めたり、のぞいたり、もっと深く大きくしてゆく穴掘りメモ。

死を思う

彼がこの世界からいなくなってからもう2か月がたってしまったんだなと数えてしまう。
終戦の日に放送されたドラマもやっぱりオンタイムでは観れなくて、
木曜日の番組も録画したものを少し時間をおいてから観た。
もうこの世界にはいないのだけれど、もうそれ以上の彼を見ることができないのだけれど、永遠に彼のままだと思ったりした。

死というものをあれ以来頻繁に考えている。
消えてなくなりたいとは思うが、死にたいとは思ったことはなかった。
どんな死も必ず一人に付き一回は必ず迎えることだ。
そう迎えるものだ、向かっているものだと思っている。
だけど死を選ぶ、死に向かってさ迷っているというタイミングが彼には何度もあったと思う。
きっと、その度に踏みとどまらせたり、助けられたり、ああ今じゃないと思わせるよな人や、言葉や、景色や、音楽やいろんなものがこの世界にはあったはずなんだけど、
あの日のあの時にはたまたま何もなくって死にさらわれたんだと思う。

彼は肉体をなくしてしまった。
だからもう、会えない。

私は肉体だけになってしまった。
私を迎えには来てくれなかった。
だから、生きてる。
わたしの元の魂はどんなだったか思い出しながらそのかけらの
いるものといらないものと分別しながら死を迎えるまで生きる。

インスタのネガ  その一

インスタのネガその一。

懐かしい友が、嫁ぎ先の地で自宅パン教室をしているというインスタを見て自粛期間中せっせとパンを焼いた。
私も時間ができたし、子らは私のパンが好きだ。
パンを発酵させてその柔らかな生地などその感触を楽しむ手をわすれない。
焼きあがっていくオーブンの中で膨らみ色づく様などのわくわくも。

私がパンを焼くようになったのは、付き合い始めたころの元夫の
「これから住む島にはパン屋がないのだ」と「君がパンを焼いてくれたら」・・・・。
もうすぐその気になって、妄想が走り出してパン教室を申し込み、パン屋の早朝バイトでサンドイッチやフィリング、簡単な成型までこなすまでになった。
移り住んで、やっとオーブンを買えて繁忙期には毎日ベーグルを何十個と焼いた。
子たちにはシフォンケーキを焼いた。
バターロールピタパンフォカッチャはよく焼いたなあ。

別居してからはずいぶん長い間パンも、ケーキも、お菓子も作らなくなった。
あの場所での生活が思い出になりだしてからぽつりぽつりと作ってみては子らが喜ぶのを見てはまた苦しくなって作れなくなった。
その繰り返しで、この自粛期間中まめまめしくパンやケーキやお菓子を作ったのは
友のインスタに触発されたに違いなかった。
2.5㎏の強力粉を使い切るまでせっせと焼いてはみたが、
気づいてしまった。

私それほどパンが好きじゃない。

パンを焼いて喜ばせたい人がいたからパンを焼き始めたってこと。
パンを焼いて子たちも喜ばせてはやりたいと思うけれど、
なんかちょっとしばらくは焼きたくないかな。
思い出しちゃったから。
秋が来るまでもうしばらくは焼かない。
私のオーブンは他人のものになってしまっているのだし。
糖質制限もしたい。

彼は猟師になった

ずいぶん前の深夜、
ただだらだらと起きて自分一人の時間を無駄使いしていた。
その深夜のNHKの「獣道」というTV番組で彼に再会した。
過去に一瞬すれ違うほどに出会った。
ずっと猟師を続けていること、ある大学で講義をしてるとか、
母校で商品化されたカレーがあるとか、
そういう風の便りで彼の道に彼がいることがまぶしかった。
また今日、彼のドキュメンタリー映画が公開されることを知ってうれしかった。

「僕は猟師になった」
28日から京都出町座などで公開

もうあまり行きたくない街だけど、
彼に会ったころの私を思い出したくないけれど、
彼に会いたいに行きたいと思った。

薄れては戻ってくる悲しい

もうすぐ彼の訃報を知って一か月になろうとしているなんて信じられないが、
彼に毎週会えた番組がとても好きだった。
録画したその番組がまだ見れない。
その番組内で特集されている内容も、美しい風景も、
世界の素晴らしさも目に入らないことが想像できるから。
きっと彼のことばかり見てしまう。彼のことばかり考えてしまう。
そう思うと、まだ見れないかもしれない。

彼の̪死がまだ現実に思えないふわふわした心地だった時、
洗濯籠に手を入れた瞬間ムカデに薬指の先をかまれた。
その痛みを感じながら、体中に熱を感じ、胸が締め付けられるような苦しさと動悸に不安になりながらも、彼はもうこんな痛みも感じなることもない。
肉体を、魂の入れ物を壊して逝ったのだなと考えてりして
もうムカデと聞いたり見たりしたら彼もセットで思い出すだろうとさえ思う。

小さなかわいい少年だったころから、青年になり、大人の男の人になっていくのを
とても透きとおったものを見ているように見ていたら本当にそうなってしまった。
ただの一視聴者でさえ、やっぱりまだまだ悲しい。
薄れていっているのだけれど、時々不意に思い出してぶり返して悲しい。
そういうものだと知ってるのだけど悲しい。

退屈という平和のなかで

コロナ禍という真っただ中にいる世界中の
子の夏休みの私たちの生活は退屈という平和の中にある。

学校や、塾や、仕事から帰ったら皆、すぐに着替えるかまたは入浴する。
手洗い、消毒は当然で人の分布、密度を測って行動する。
押しボタンはもう指で押すことはなくなって、ノックするように押す。
商品を選ぶ時もあれやこれやと手に取ることもなく目視でさっとキャッチ。
買うものはあらかじめ決めていくこと、遠出をせずマイクロツーリズムはお財布事情ゆえにコロナと関係なく普段通り。
人の前でノーマスクでいることはなくなって、マスクを取るのが恥ずかしいが
アイメイクは必ずするようになっている。
コロナが落ち着いたら新しいスニーカーで出かけようと思っていたのがまだおろしていない。
まだ、誰かの肌に触れるという仕事の再開の決心がつかない。

そうこう言っている間に、庭のテッポウユリが咲いた。
今年は写生すると決めていた。
まずは、写生して元気を取り戻そう。
今、コロナ禍においてこの退屈なほどの毎日がありがたいと思うばかりだけれど、
やっぱり本当の平和は、どこへでも行くことができて、人と出会うことを楽しんだり、触れることができる世界。