キツツキの穴

日々つついた穴を埋めたり、のぞいたり、もっと深く大きくしてゆく穴掘りメモ。

三輪山へ

奈良の大神神社にお参りに行った。
パワースポットの一つとして有名なのかもしれない。
鳥居を見上げ、その森の木の大きさにもう英気を感じる。
そのご神体三輪山に入らせていただく。
標高430m。
往復4km、2~3時間。
大神神社の昭和祭りに重なったせいかGWだからか、信者の方からの苦情も多いらしい。
たくさんの人だ。
入山前に集められて入山の心得と注意を聞く。
ここでは入山の届けをして首から下げるたすきをお借りする。

三輪山がご神体であり、
レジャー気分で入山しないこと。
信仰の念をもって入山すること。

登山をする人にはマナーであるかもしれないが、
行きかうときにあいさつしないこと。
お経を唱え、願いを込めて歩く信者の方々の妨げになるとのこと。

携帯電話の使用、撮影、おしゃべり、水分補給以外の飲食の禁止などの注意を受ける。

私たちも鈴のついたタスキを首から下げ、お祓いをし入山した。
ある地点までは、子らと細い道を行きかうマナーやペース、歩き方などを見ながら一緒に歩き進める。
が、そこそこに急な坂道や階段の道。弱音が子らの口から出だし、その言葉が邪魔をして私の心が解放されない。始め元気に私の前を歩いていた子らが、休憩で座り込むことが増えだし、私の体力が勝る。子らを置いて先に行く。
一人になればその弱音は出まい。
道は一本道。頂上付近で落ち合うことにして別れた。
時々後方を見下ろし確認しながら、やっぱり彼女らとは別々の時間があり、
それぞれの別の個体なのだと改めて思ったりする。
私には私のペースがあり、歩み進めていくことに没頭しつつ、ご神体とつながりながら
私からあふれてくるこもごもと話しながら歩きたい。
電車に乗りながらぐるりと見上げた三輪山の新緑の木洩れ日の下を一人になって歩く。
注意があったのに、たいていの下山者たちから挨拶の声をかけられる。
その度に自分の中の声や思考、祈りが揺れる。
その声にムキになって答えないようにする私ってよっぽど俗な人間かもしれないなと
ちらりと思いつつ自分の踏みしめる音と、息、鈴の音を聞きながら深く、それでいて軽やかな気持ちになっていく。
初めてが今日でよかったな。

次女は、「立木さんに50回登っても、ここにはもう登りたくない」
と言うほどしんどかったらしいが、彼女らの体力はすぐにこの三輪山に追いつくと思う。
また誘うよ。
私はここが好きだ。
下りはゆっくりゆっくり。
足元はその段差を丁寧に確認しながらでないと足をくじきかねない。
また、明日からの筋肉痛やひざの心配もしなくちゃいけない年齢に差し掛かってきている。
体が資本。
それに、まだまだ下界の私たちの世界に帰りたくないと私の心が言っている。
もったいつけるように、ゆっくりゆっくりおりた。

私の世界に戻る準備をしながら。
後ろから急かすような足音がしたらはじによけてかわす。
のぼっていく苦しさが修行のようであり、ご神体というものを感じやすく、
また頂上に着いたという達成感か安堵感から下山の時の方が気が緩んで挨拶の声が出てしまうのかもしれない。
のぼる人からの声かけはほとんどなかったなあと、下山していくとき思った。
のぼるときの方が、周りの風景や木々を感じたなあと思う。
おりる時は、足元に注意がいって、立ち止まらないと周りを見ることはない。
裸足で入山する人も多いが、私のこの日のために買った白いスニーカーは白い巡礼の衣装のつもり。
下着も、身につけるもののほとんどを白色に臨んだこの日。
良い一日だった。
お昼はやっぱり冷やし三輪そうめん