キツツキの穴

日々つついた穴を埋めたり、のぞいたり、もっと深く大きくしてゆく穴掘りメモ。

海か山か

土曜夜8時のNHK大河ドラマ「西郷どん」。
家の決まってつけるTVの時間。
舞台は流刑にされた奄美大島に移っている。
亜熱帯の植物、光と影は懐かしく苦しい。
何よりきれいすぎる海が余計に悲しみや苦しさを思い出させる。
しばらくしんどいな。

海を見て死にたいか、山を見て死にたいか。

私は山がいい。山を見て生きたい。
海より、土にかえりたい。


ケチのついたお金

年末の母の骨折からしばらく、家のことや病院通い、仕事も立て込んでいて毎日どう過ごしていたのかわからないような日が続いていたが、
セーブできる仕事は減らし、時間の融通をしていただける仕事は助けていただき、
収入の減は致しかたないと思っていた。
そこへ、飛び跳ねるような元気な文字で「お見舞い」と書かれた蝶結びに熨斗のついた封筒。
いくら入っていたかは知らない。
私には、その文字も、蝶結びの水引きのプリントも、熨斗も、ドンっと突き飛ばされたようなえッという驚きと一緒に嫌な記憶を思い出さされた。

結婚の祝いにといただいたご祝儀袋の中に入っていた9(苦)万円。
何度も数えた10万円の一枚数え間違いかと。
まさかの入れ忘れかと。
でも頂いたのは、父方の伯母姉妹3人組。
3万円ずつ出し合って一枚のご祝儀袋に入れたとか。
それで9(苦)万円。
それが原因ではないのだけれど、何と苦しかったことだろう結婚生活。
忌み嫌う数字の額を堂々と入れるとは・・・
何年も経っているのに、まだまだ根に持ち思い出してはまた苦しむ。

毎日にくたびれて、手取りの収入も減っていたから少額でもうれしいものだったはずだけれど、
それはもう丁寧にお返しした。
蝶結びに熨斗までついたお見舞いのお金は受け取りたくない。
そういうものだ。
ただの包み紙かもしれないが。

母の日

5月は嫌いな月だ。

GWもあるし、
母の日もあるし、
長女の誕生日も有る。
私を母にし、
私の苦しみが始まった月でもある。

今年の母の日の前夜には70を超えた母とつかみ合いの殴り合いのけんかをし、
翌母の日、北海道に友人と旅行に行くという母にお小遣いをあげようと思っていたがやめた。
母の日は一日中雨で、
出掛けず、家にこもってくすぶっていた。
明日は長女の誕生日。
初めての定期試験目前で本人よりも私の方がドキドキしている。
もっと時間の有効活用、勉強の仕方があるのになあ・・・・
私が勉強して受ける方が気が楽や~~・・
と、私と母とのけんかのきっかけを作るのはいつもこの長女。
当たらず触らず、毎日を慎重に過ごしている私の気も知ってか知らずか。

でも、2泊3日母が家を留守にするこの時間がなんと解放されてほっとできることか。
夕食の準備に立つ台所も新鮮だ。
何作ろ~、いつもより早い時間に食べ始めようって。
母の年末の骨折から年始の入院、手術、リハビリ、インフルエンザ、階段から落ちて骨折とかいろいろあって、おとなしくしていてくれた期間の平和を思い出して、しみじみするよこの不在の時間。
明日は帰ってくる。
また、ファイティングデイズの始まりか~~・・

違う本を読んでほしかった

私が子らに買い与えた本は、私が子供のころ好きだった本や
欲しくても買えなかった絵本。
子供のころ、近くの公民館で週末土曜日に開かれていた本を借りることが出来た「りす文庫」。今も続いているその文庫は役割を縮小されて、またスタッフの方々も高齢化されているようだ。
私は子供のころ本を買ってもらえなかったのでこの文庫はとてもありがたく毎週のように通った。
あらかじめ子らの年齢や季節行事に合わせて本は選定されていた。
選ぶという選択肢の幅は相当狭まれていた。
それで十分だった。
今はいくつかのコミュニティーセンターに併設されている小さな図書館があって、
簡単に本を手に取り、たくさん読むことが出来て、本好きには大事な居場所になっている。


私の子らは近くの小さな図書館へ本を読みに、借りに行かせている。
その中で、自分の本棚にいつも手に取り何度でも読みたい本に出合ったら購入する。
長女は4年生ごろから借りてくる本が変わったきた。
分厚い表紙に守られた絵本や児童書ではない文庫、かわいい漫画チックな絵の付いたライトノベルに変わり、そしてエタニティブックスへ。
大人の恋愛小説をむさぶるように読んで、百戦錬磨の恋愛の達人ではないかというほどに。
内容や性描写が過激すぎて、司書に相談した。
年齢制限や本として閲覧、借りるための本棚の設置場所を改めてはもらえないかと。
なかなか改められないので、借りている本を取り上げて貸出カードを使えない状態にしたまま、返却を延滞しながら遠ざけた。
まだ、あなたが手に取り読むには早すぎる。性描写が過激すぎる。
もっと、違うジャンルの本を読んでほしい。と話した。
が、どんな本も興味がわかない。面白くない。
と、禁断症状が出たのか、古本屋で購入までしていた。
中毒だな。
小学生のうちに読んでおいてほしかった本はたくさんある。
ただ、字をなぞるだけの読み方ではない読書体験をしてほしかった。
いつでも、どんな本でも選べる環境というものは選ぶものを間違うと活かされないものだ。
極端な話、好む本、読んだ本でその人が創られるとも思っている。
人情小説、恋愛小説、哲学書や啓発本・・・ハルキストがハルキストであるように、
習慣や考え方が本に沿わされると思っている。
ヤバイ、この子どうなるの???

今、中学生になって図書館に行く暇がないほどクラブ活動も忙しい。
家族の貸だしカードまで使って借りていたその本は段ボール一杯にあった。
やっと、返した。
生殖としての役割から降りようとしている私には、もうその過激すぎる性描写の表現やシチュエーションもいつかの体験や身体感覚を懐かしく思い出しはするが、
今、読み物として読んでも時間もったいない~~!と思うくらいで、もう盛り上がったりはしない。
彼女が、何年かをこんな本の中での空想の恋愛やセックスを読み漁っていたことに、ただただ残念に思う。
が、彼女にとったら好きな本を好きなだけ読んだんだからそれはそれでよしなのだろうなあ。
すごい想像と興味、好奇心でいっぱいなんだろうな。
私も、ませてたよ。
私の性への興味をかきたてたのは何だったのだろうと一生懸命思い出そうとした。

頻繁に長期であった毎回殺し合いでもしているような両親の夫婦喧嘩。
どんな修羅場の後でも、いつしかケロッとして前をだらしなくはだけた母が寝室から出てくる。
信じられなかった。いつか私たち姉弟は殺人者の子になり、施設で暮らすようになるのではとびくびくして恐怖に震えているのに、そうやってわけもわからないように平穏のふりをした日常のようなモノに戻す両親の寝室で行われる事が、どんなにイイものなのか。
そうした興味や、期待、あこがれ。

私にとっては、仲直りの手段にはならなかったが、
生殖を目的とした結果として子を得た。
母娘はむつかしい。

中学入学のお祝いにたくさん図書券をもらった。
どう使おう・・・

女のスイッチ

うすうす、いや最近は露骨に感じる。
長女の女のにおい。

私もその頃の自分に思いあたることあり。
覚えあり。
かなりませていたと思う。
私も、叔母の言葉を借りてもう、言わなければならない。
「公衆便所の女になるな」
公園や駅のも、
デパートやホテルのトイレも
どんなに設えが良くて清潔でも誰でも使える入れるトイレ。
性の衝動はサカリ。
衝動だから止められない時もある。
でも、言葉で楔として10回のうちの幾度かを踏み止ませることができるように。

そういう危うさがある。
私にもあったからこそ、叔母は私にくれたその楔を。
私と長女との関係では、その楔は大した重しにもならないかもしれないが。