キツツキの穴

日々つついた穴を埋めたり、のぞいたり、もっと深く大きくしてゆく穴掘りメモ。

鳥取へ

春休み、子らと青春18きっぷを使って鳥取へ行ってきた。
鳥取砂丘メインの旅。
山陰線をローカルで乗り継ぎ、道草しながら鳥取駅に着いたのは16時過ぎ。
バスで25分ほど、砂丘を目指す。
どこへ行っても、その地で沈む太陽を見たい。
家族旅行で来て以来、30年ぶりに馬の背の斜面を砂に足を取られながら登る。
が、この日はかすんで水平線もどのあたりかわからないような天気だった。
夕日は見れなかった。
が、子らは初めての砂丘の慣れ知っている石灰岩やサンゴなどの有機物の感触の砂浜とは違う火山灰や砂の感触を気持ちよさそうに楽しんでいる。
最終のバスも行ってしまった。
今日は星空も期待できそうにない天気。
旅の2日目に期待して。






砂丘を上ること  飛んだこと

鳥取へ行ってきた。
GWは仕事もあるし、子らを連れて出かけることは難しい。
きっと、すごい人の混雑だろう。
また、夏にたぶんこんな体力を使うこと、汗だくになること、紫外線の下での
アクティビティは考えられない!!
今や!!
砂丘でパラグライダーを体験をした。
飛んだ!

前日の夕方、砂丘を上る練習もかねて砂丘の馬の背を上った。
スキーの時、板を斜面に横向けにカニ歩きしたなあと、登ってみる。
いろいろ試して、登山のザイールを打ち付けるようにつま先をザックザックと
つま先をグーにして突き刺すように、とても一段が低い階段を上っていくように一歩一歩
進めていくのが一番疲れずに確実に登っていけるように思う。
パラグライダーで飛んだあと、また飛行地点まで登るのは自力。
10キロ弱の一式を背負って飛んで降りた分を上らなくてはならない。
しかも、次女の分もサポートしなくちゃいけないし、自信があるとはいえ確実に小エネルギーで何本か往復することを覚悟して。

当日、安全に着地するための講習を少し受けて、飛行地点に到着。
次女、すすんで志願して一番飛行。
パラシュートが膨らんでも、砂から足が離れても、空を何歩か歩く。
浮き上がって、飛んで、落ちていく姿を着地する脚とパラシュートがしぼんでいくのを飛行地点から見つめる。
飛行一本目。
長女、私と続く。
パラシュートが膨らんで、一、二歩後ろに引っ張られる。斜面に向かって数歩走る。
すぐに足が離れて、そのまま空を一歩二歩走る。
前を見て水平線を見て、一瞬、私を空へ浮かばせているパラシュートを見上げる。
飛んでいる。
浮いている。
操作を支持する声を聴いて20秒程でまた砂浜へ着地して戻ってくる。
未知の感覚を体験した。

一人3本の飛行。
3度、10キロ弱を背負ってのぼる。
この距離をこの高さを飛んだ、その間地上の人でなかった瞬間を思い出しながら。
自分の分を運びきって、次女のもとへ助けに行く。
が、彼女も頑張り屋さん。
自分で背負い、後ろから声をかけながら荷を押し上げてやりながら2人で登り切る。
次女の3本、長女の3本それぞれの飛行する姿をビデオに録り納めた。
が、私の姿はこの一枚。
この体験スクールのブログ内で発見した。
私も飛んだんだよ~~!!

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私の一人暮らし

#  は付けないが、
書いておこう。

一人暮らしはしたことがない。
いつかしたい。
子らがそれぞれに自立し、
親を見送った後、
いつかはしたいと思っている夢だ。

2月、住んでいる宇治市市営住宅の募集があって、
家族に内緒で応募した。
が、抽選にはもれてしまった。
私たちよりずっと、切実に住居として求める強い思いに負けたのだと思う。
運というが、それは必ずあるべき人にあるべきタイミングで訪れるものだと思っている。
私にとって、その時ではなかったのかもしれないが
「一人になりたい」「子らとだけで生活したい」と、
実家での生活が限界と思うことは度々ある。
数分おきに、または途切れることなくずっと。
不動産屋の前を通るたび立ち止まり物件の中に縁を探す。
ここ空き家かなあと、その玄関から出てくる私を想像する。

平屋か、または賃貸の小さなこじんまりとした
できるだけ物のない明るい部屋で、
ガスオーブンがあるお台所がほしいなあ。
一人暮らしには少し大きめの丸テーブルにテーブルクロスをかけて
元気な大きな鉢植えの葉を見ながら大きく窓を開けてカーテンをゆらせたい。
夢だなあ。

今までも、思い描いていたことは少しずつ叶ってきた。
この一人暮らしも、いつかはどんな形であろうと実現するであろうと思う。
子らはいつかは巣立つし、
親はいつか死ぬのだから。
私が、いかにその時あるかだ。
働け、稼げよ、私。

春の彼岸

暑さ寒さも彼岸まで

とはよく言ったなあ。と、暖かな春にまだ冬の体が
そろりそろりと緩もかな、どうしょうかなと、
まだこわばっている。

お彼岸、お盆、命日にお墓に参る。
あと何年、70を超えた母たち姉妹がここに参り守っていけるのか数え想像しながら
急な坂を上りながら見晴らしのいいそこへ登っていく。
遠くの山も、空も、見下ろす集落も花粉か黄砂かで黄白くかすんで
自分たちの周りの空気もそんな色をしているのだろうなと
吸い込む息が体の中の粘膜に薄く層になっていくその様子を想像したりする。

TVの番組で、お墓参りのマナーや作法などを見ている子らが
情報だけじゃなく、見まねで掃除したり、線香をあげる手つきが慣れて、
毎回毎回上手になっている姿が面白い。

夕方、その黄白くかすんだ向こうに綺麗な朱赤の太陽が浮かんでいるのを見て
わあッとうれしくなったりする。

夜、近くのスーパーの前にあるお墓の墓石が
このお彼岸中に磨かれて綺麗になったよ~っていうみたいに
車のライトに
ピカッキラッといつもより光ったりして
線香のにおいがまだ漂っていたりするのは、
なんかいいなあと思ったりする。

私はお墓はいらないよ。
と思っていても、
合掌と、手を合わせた時の心地よさは良くって
あの世の私とこの世の子らとで互いに合掌しあいっこする様を想像したりするのも幸せ。

今年はいろんな人から手作りの牡丹餅のおすそ分けをいただいて
たくさん食べた。
なんだか、春のあんこの方が少しやわらかくてゆるいような気がする。
春ならではかなあ。

穴 再採掘

長い間、ここに来なかった。
ここに書かなかった。
忙しくしていたし、たくさんのことがあった。
いつもは咀嚼して、喉にに引っかかったり、詰まらせたり、
または嚥下したものをまた味わったりしながら、ここに書いていた物を
もう、消化吸収しきっているものも
その時期あった感じたことの覚書として前後しながらも
残しておこう。

もう過ぎてなくなってしまったものでも、
やっぱり思い出して気持ち悪くなることもある。
ここはそう言う穴だった。
穴に吸い込ませて、また思い出したとしても
心の中で、または口に出して「✖」と、
跳ね返して、この穴に反せるように。