にんじん
一度だけ、義母だった人と私の台所に立ったことがある。
一本のにんじんを調理する時彼女は、細い方を使うか、太い方を残すか私に聞いた。
何を作っていたかは思い出せない。
長女を妊娠しているまだ、つわりでつらい時だった。
台風が迫っていた。
私はにんじんをどちらから使うか考えたことがなかった。
一度の調理で一本使い切ってしまうのが常だった。
肉じゃがを作るときも、カレーの時も、おからを炊く時も、ひじきを炊く時も、
にんじんのサラダも、シリシリも。
どう答えたか覚えていない。
今も、一本使うには多くても、
絶対もう一品増やしてでも、一本使う。
「一本まるまる使います。残しません。」
と、毎回心の中で答えながら、毎回にんじん一本。
義姉だったこと
時々、義妹だった彼女のことを思い出す。
なぜか、彼女には私が家を出る一年前に、「家を出る決心をしている」と告げていた。
甘ったれた考えもあったろう。
「兄ちゃんはアホや」と、言っていた通り兄ちゃんはアホやったが、一緒にいた私もアホやった。
さりげなく、またはストレートに一発アホな兄ちゃんに言ってくれるのではないかと期待していたのかもしれない。
でも、離れて暮らせば他人ほども無関係。触らぬ神に祟りなし。
彼女は、どう思っているかは知らないが、のどに骨がひかっかっているように飲み込めないものを飲ませたかもしれないな。ほかの毒とあいまって、膿んでいるかもしれない。
今、どうしているか知らないが、彼女にも、自由になってほしい。
写真を見る事
3月、元夫と暮らしたその家に行った。
飛行機と高速艇を乗り継いで、家での滞在時間30分。
その日の最終便の高速艇で島を出なくてはならなかったから。
とっても淋しい時間だったから、30分でちょうどいいくらいだ。
本当は、新しい女と始めた生活に一枚とて残しておきたくなかったが、元夫がもう二度と見返すことのない程に早く朽ちてしまうよう願いながら、私達の写真の一部を持ち帰った。
ほとんどは交際中の1999年から2000年のものが多いか。
たくさんの写真の中でも、その時の思い出や感情抜きにただ、私が良く撮れているもの、私が好きだった服を着ているもの、私が好きだったものを食べているところ、私が楽しかったと思いだしていい気分のものだけを選んで、私のアルバムにした。
そのアルバムは、子らにも誰にも見つからないような時間にこっそり見る。
見れるようになった私は少し、その時間を肯定できるようになったか。
家族になって、毎年写真館でとっていた何年か分の家族写真も一人でこっそり見る。
そして、いつも子や夫が、先に着て写りたい洋服を選んでしまうのでその色やテイストに合わせてバランスをとるように私が着る服を選ぶと大体必ず、白い服になってしまうのだった。そうやって、形となっていたのだった。
どの顔も笑っていて、まさか家を出ようと一年前から決心していたとは思えないなあと自分のことながら不思議でしょうがない。
決心と、衝動の交わり。
私の家族は一人欠けただけだ。
また、毎年の家族写真始めようか。
そうして、家族写真を増やしていけば、それを見るずっと後の私がどう感じるか。
一番うれしかったこと
今まで、一番うれしかったことはと、思い返すと
長女が自転車に乗れる姿を見た時。
次女の出産で実家の家の前で練習に付き合ってはいたが、重い大きなおなかで
寒い季節に外での練習はきつかった。2人してあきらめた。
次女を産み、自宅に戻り、私は練習に付き合えなかったので、長く自転車に再挑戦することもなかったが、夏の繁忙期も過ぎて、長女はパパと一緒に広い漁港で同い年の同じまだ自転車に乗れない男の子と一緒に特訓した。
そして、家を出て海に向かって下りて行った道で、自信満面でこいで見せてくれた。
パパとの練習で、パパと一緒に私を喜ばせてくれた一番の出来事。
この時の写真は私の宝物。
でも、もうこの頃には、もう一年、もう一年と、辛抱も、我慢も限界になったら、なったらと、すがるようにカウントダウンは始まっていた。