キツツキの穴

日々つついた穴を埋めたり、のぞいたり、もっと深く大きくしてゆく穴掘りメモ。

ひっ算を知る

次女2年生。
ひっ算で二けたの足し算、引き算を習った。

正直、長女と比べて悪いが次女は教えたことを記憶することも、
自分で考えることも、やや苦手だと思っている。
それは早生まれだということもあるし、少し遅いのだろうなと、
末っ子の可愛さもあっていろいろ大目に見てきた。
2年生になったことだし、
学校生活に慣れてきて、いっちょ前に手を抜くことまでし出したので
これは喝を入れねばと、少し厳しくもしてみた。

そこに、ひっ算。
今まで横書きにしていた算数の式が二階建てになって、
なんだか急にわかった、理解したらしい。
ひっ算の二階建ての式を前に、ようようと説明してくれる。
そして、パ~っとひと皮むけたように、

イヤイヤだった宿題の始め方も、
おうちの用事も、行動も積極的。
楽しそうになった。

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何かができるようになる、
自信が持てることができる時の変わる様を
目の当たりにできる時というのは面白い。

長女は勉強に関しては、うっかりの間違いはあっても
今まで習うことを一歩一歩理解して、確認して、まだ周りを見ながら登っていく
余裕すらありそうに6年生になって、
苦しむ姿を見なかった。
違うことであなたは、ひと皮も、ふた皮もむけていく苦しみと
軽やかになっていくのを知っていくだろうなあ。
相当、高層のひっ算を背負って。
私と同じように。

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言葉の不思議

基本、徒歩圏内に生活、仕事の範囲においているので、
格段に本を読む時間や、日記を書く時間が減っている。

通学や通勤の時間には、たくさん本も読んだし、
向かいに座る人たちをチラチラと盗み見て
カバンの中の画帳にクロッキーしたものだったが、懐かしい。

最近、ジュンパ・ラヒリ著 「別の言葉で」を読んだ。
両親からはベンガル語、生活圏はアメリカなので英語。
そして、出会ったイタリア語に魅せられてイタリア語で文章を書いている。
イタリア語だからこそ書けたという、物語。
そのそれぞれの言語だからこその人としての人格、行動、思想というものがあるのだろう。と思う。

私は、I~~.で始まる文章が好きだ。
必ず、‘私‘があるから。
言葉の中にも、生活の中にも、‘私‘を見失うこと、無くしてしまうことが怖い。
失くしてしましそうなとき、わざわざ、「私」という。
または、なぜだか、頭の中で言いたいことが英語で浮かんで、
それを翻訳するように口で日本語で話すようなときがある。

自分でもおかしいのだけれど。

この本、私がモヤモヤと思っていたことや感じていたことを
とてもなじむ言葉と空気感で書かれていて、気にいっている。

 

べつの言葉で (新潮クレスト・ブックス)

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横断歩道

いつだったか、信号のない横断歩道で歩行者がいて、
車が止まらないのは交通違反だ。
と、ワイドショーだか、ニュースだかでやったとき、
いつもの横断歩道のわたりやすかったこと!!
効果てきめん。

日も経って、今は毎朝、子らの登校の時の黄色い旗をもって横断させるのに何台も、十数台の車を見送ることか。
消えかけの停止線で止まりそびれた私の一点、7000円の罰金を取っていったあの交通課のお巡りさん!!
今ここに立ってくださ~~~い!!と、何度、毎朝思うことか・・・

だから、というわけでもないが、私一人の時は、たぶんかなり強引に横断歩道を渡る。
運転者として、この距離なら、この速さなら車が止まれるという判断をしたら
わたる。
手前の車線が渡れるタイミングだったら、奥の車線の車は止まれると思える後方の車の車幅もかんがみてわたり始める。

夜道はライトをつけても、確認しにくいのはわかっているので夜はしないが、
かなり強引なわたり方かもしれない。
会釈も、頭も下げない。
すべきかもしれないが、交通違反なのだよ。
信号のない横断歩道で、止まらないのは。
小さな子の手をひき、たくさんの荷物を持ち、
雨の日もあれば、カンカン照りの日も、雪の日も、歩行者に自分たち車が通り切るまで待てと?
アクセルを踏みなおしてまで通る?
たった、数秒、ブレーキかけて止まるのが惜しい?

歩道を自転車が通るのも好きじゃない。
だけど、道が狭いから仕方ないとも思っている。
それでも、歩行者に向かってチリンチリン、ベルを鳴らされるのは嫌い。
だから、止まって、道を譲ったりなんかはしない。
よけてはあげるが、歩行者としての私の歩みを止めさせたりはしない。
道いっぱいに広がって向かって歩いてくる登下校の子らに、小さくなって道を譲ったりしない。
あんたたちが、譲って道をあけなさいと、戦車のようなつもりで歩く。
あんたたちだけの道じゃないと。

宇治の道は悪い。
狭いし、交通量は多いし、歩道も、自転車道も安全な道は少ない。
改善も遅い。されない。
登下校の小中学生のマナーも悪い。
だけど、自分たちの身を守ること、誰かを傷つけないこと、迷惑をかけない事は、しっかりと、都度都度に引き締めて、改めていかなくちゃいけない。

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母のこと

何週か前、毎日新聞の日曜のコラム、小川糸さんの「日曜ですよ」に
「母のこと 1」
と、突然ドンと始まった。

2、か3くらいで終わるのかなと、ドキドキしながら読んでいた。
6まで続いた。
49日。お母さんが亡くなられて、彼女なりの供養の形だった。
やっぱりなあ。
母を書くには、話すには勇気がいる。
私も思うところはいっぱいあるが、私も、彼女が生きている限りなにも言葉にはすまい。

今年の母の日、子らから
「ココアいっぱいしてね」
と、小さな泡だて器を贈られた。
空気をいっぱい混ぜ込むために、ミルクパンの中で親の敵とばかりに
ミルクを温めながら混ぜるのが私流。

長女は、その同じ泡だて器で毎夕、みそ汁のみそを解いていて、
共有している。
この日くらい、花も欲しいなあと密かに思っているのだけれど。

今年まだ、母の日の贈り物してない。
なにしよ、なにしよ・・・という間に母月終わり・・・

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熟年婚

「ママは、再婚しんといてな。」
長女が言う。
わかってます。
笑うしかない。

夏木マリ桃井かおり、そして阿川佐和子までもが結婚した。
皆、素敵な女性だもの。

今、晩婚化。
CMでも、「結婚しなくても幸せになれる時代。」と、言い切っている。
でも、結婚という形態も、制度もあり続けるし、
一種のあこがれや、ゴールのようになってもいる。
強迫めいたものでもある。
子供を産めよ増やせよと躍起になられてもいる。

一度は結婚して、壊れてしまったけれど、
結婚というものに縛られない誰かと生きることを
いつかまた、選択できたらなあと思う。

子らが独立し、両親を見送り、健康な体があれば
それぞれの責任をお互い果たした者同士で
互いのそれまでをすり合わせることなく、
初めての一人と一人として一緒に生きていけたら幸せかもなあと。
夢見ている。

今までもそうだったように、
きっとこの夢もかなうと思う。
私が、もっと素敵な人にならなくちゃいけないのだけど。
まだ、まだ、私を割って砕いて、磨く時間はある。

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