キツツキの穴

日々つついた穴を埋めたり、のぞいたり、もっと深く大きくしてゆく穴掘りメモ。

横断歩道

いつだったか、信号のない横断歩道で歩行者がいて、
車が止まらないのは交通違反だ。
と、ワイドショーだか、ニュースだかでやったとき、
いつもの横断歩道のわたりやすかったこと!!
効果てきめん。

日も経って、今は毎朝、子らの登校の時の黄色い旗をもって横断させるのに何台も、十数台の車を見送ることか。
消えかけの停止線で止まりそびれた私の一点、7000円の罰金を取っていったあの交通課のお巡りさん!!
今ここに立ってくださ~~~い!!と、何度、毎朝思うことか・・・

だから、というわけでもないが、私一人の時は、たぶんかなり強引に横断歩道を渡る。
運転者として、この距離なら、この速さなら車が止まれるという判断をしたら
わたる。
手前の車線が渡れるタイミングだったら、奥の車線の車は止まれると思える後方の車の車幅もかんがみてわたり始める。

夜道はライトをつけても、確認しにくいのはわかっているので夜はしないが、
かなり強引なわたり方かもしれない。
会釈も、頭も下げない。
すべきかもしれないが、交通違反なのだよ。
信号のない横断歩道で、止まらないのは。
小さな子の手をひき、たくさんの荷物を持ち、
雨の日もあれば、カンカン照りの日も、雪の日も、歩行者に自分たち車が通り切るまで待てと?
アクセルを踏みなおしてまで通る?
たった、数秒、ブレーキかけて止まるのが惜しい?

歩道を自転車が通るのも好きじゃない。
だけど、道が狭いから仕方ないとも思っている。
それでも、歩行者に向かってチリンチリン、ベルを鳴らされるのは嫌い。
だから、止まって、道を譲ったりなんかはしない。
よけてはあげるが、歩行者としての私の歩みを止めさせたりはしない。
道いっぱいに広がって向かって歩いてくる登下校の子らに、小さくなって道を譲ったりしない。
あんたたちが、譲って道をあけなさいと、戦車のようなつもりで歩く。
あんたたちだけの道じゃないと。

宇治の道は悪い。
狭いし、交通量は多いし、歩道も、自転車道も安全な道は少ない。
改善も遅い。されない。
登下校の小中学生のマナーも悪い。
だけど、自分たちの身を守ること、誰かを傷つけないこと、迷惑をかけない事は、しっかりと、都度都度に引き締めて、改めていかなくちゃいけない。

母のこと

何週か前、毎日新聞の日曜のコラム、小川糸さんの「日曜ですよ」に
「母のこと 1」
と、突然ドンと始まった。

2、か3くらいで終わるのかなと、ドキドキしながら読んでいた。
6まで続いた。
49日。お母さんが亡くなられて、彼女なりの供養の形だった。
やっぱりなあ。
母を書くには、話すには勇気がいる。
私も思うところはいっぱいあるが、私も、彼女が生きている限りなにも言葉にはすまい。

今年の母の日、子らから
「ココアいっぱいしてね」
と、小さな泡だて器を贈られた。
空気をいっぱい混ぜ込むために、ミルクパンの中で親の敵とばかりに
ミルクを温めながら混ぜるのが私流。

長女は、その同じ泡だて器で毎夕、みそ汁のみそを解いていて、
共有している。
この日くらい、花も欲しいなあと密かに思っているのだけれど。

今年まだ、母の日の贈り物してない。
なにしよ、なにしよ・・・という間に母月終わり・・・

熟年婚

「ママは、再婚しんといてな。」
長女が言う。
わかってます。
笑うしかない。

夏木マリ桃井かおり、そして阿川佐和子までもが結婚した。
皆、素敵な女性だもの。

今、晩婚化。
CMでも、「結婚しなくても幸せになれる時代。」と、言い切っている。
でも、結婚という形態も、制度もあり続けるし、
一種のあこがれや、ゴールのようになってもいる。
強迫めいたものでもある。
子供を産めよ増やせよと躍起になられてもいる。

一度は結婚して、壊れてしまったけれど、
結婚というものに縛られない誰かと生きることを
いつかまた、選択できたらなあと思う。

子らが独立し、両親を見送り、健康な体があれば
それぞれの責任をお互い果たした者同士で
互いのそれまでをすり合わせることなく、
初めての一人と一人として一緒に生きていけたら幸せかもなあと。
夢見ている。

今までもそうだったように、
きっとこの夢もかなうと思う。
私が、もっと素敵な人にならなくちゃいけないのだけど。
まだ、まだ、私を割って砕いて、磨く時間はある。

わが家の禁句

子が、家の用事、家事と呼ばれることをすることを
「お手伝い」
と、呼ぶが、これが我が家の禁句。

家事を、大人の女がする無償の仕事、用事だと認識することをやめさせること。
これを、女がまず改める事。

家事は、たくさんある。
食べること、着ること、居る場所を整えること。
それらを、誰かがじゃなくて自分がかかわって、みんながすることだとして一緒にすること。
自分もしなくちゃ居心地悪く感じること。
誰かがやってくれた時、ありがとうと思えること。
あたりまえに出来上がっていないこと。
「お手伝い」は、誰かのしていること、し切れないことを助ける事。
だから、家事のすべてが皆のすべきことだということ。

少しずつ子らに指示を出すことが少なくなってきている。
夕飯を、皆で席に着くためには誰が、どの仕事をすべきかわかってきている。
食卓を整えるという、一番簡単で分かりやすいことが済んだら
台所へきて自分の仕事を探しに来る。
やれそうで、やってみたいことがあれば挑戦もする。
味見となれば、味見以上のつまみ食いもする。
みそ汁はもう長女の役だ。
ご飯をよそうのは長女、皆のそれぞれに、いつもの食べる量を目で見て、
重さを感じて適量をおいしそうにふっくらとよそえるようになった。
お運びは次女、ちゃんと年長のじいじから配る。
いろんなことが上手になって、自信と、安心が増えていく。

洗濯物を取り入れて、
早い者勝ちのようにタオルを取り合いながらたたみ、
小さくて簡単なものからたたんでくれる。
おおきくてどうたたむの~~!?というものは悩んだんだろうなあという不思議な形で一番下に積まれていたりする。
銘々がタンスにしまうときの畳みなおしが手間ではあるが、
それもまた悩みながらたたんだ姿を思い浮かべれば楽しい。

なぜか、今、ずっとしてくれるらしいが長女が布団を敷いてくれている。
夏の布団に変えたので楽になったからでもあるだろうが、
とっても助かる。
一日の最後の大仕事。布団敷。
してもらうって、うれしいし、幸せ。

私の苦手

春は、決めなくちゃいけないことがいっぱい、たくさんある。
その一つ一つに対処しきれていないが、
まずまずこなしながら、これぞというものから逃げてしまっている。
そして、期限期日が迫り、せっぱ詰まって消えてしまう、かなわなくなること
あきらめなくてはいけなくなることも出てくる。

そのたいていが、私だけに関わることじゃないことが多い。

楽しいこと、思い出づくり、記念・・・そんなことを考えて決めることが苦手。